写真1 最近の難波田城とその周辺 Googleマップより。
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写真2 昭和22年に撮影された航空写真の一つ。二ノ丸や本丸を取り囲む曲輪や堀の様子がわかる。
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図1 複数存在する江戸時代前期に描かれた難波田城図の一つ(難波田城資料館)。
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図2 幕末に描かれた難波田城図 追手門の外に馬出しが描かれている(難波田城資料館)。
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図3 難波田城資料館平成18年春企画展の刊行物「難波田城のすべて」に掲載された推定範囲図。
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図4 難波田城資料館開館20周年記念 令和3年春季企画展刊行物「難波田氏とその時代」に掲載された難波田城跡縄張り推定復元図。
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写真3 搦手の写真 保存状態が極めて良く防御の仕組みもわかる。搦手門(虎口)を入ると枡形1があり、右に向かうと第二の門がある。左に向かうと枡形2があるが行き止まりに見える。
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写真4 搦手門(虎口)の外には馬出しがあり、その直ぐ近くに堡塁の痕跡が二箇所確認できる。
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写真5 三叉路と櫓台跡の遺構。
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写真6 三叉路堡塁の痕跡と櫓台跡の拡大写真(ボヤケは解像度によるもの)。
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写真7 蔵屋敷があった場所と考えられる扇形の土地。通路の痕跡があり難波田城図とも符合する。堀のあった場所が縞模様になっていることから障子堀だった可能性がある。
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写真8 現在も残る扇形の土地(Google Earthより)。
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写真9 城の北側は、二ノ丸と曲輪が並行していて外堀と中堀の様子もわかる。各所に横矢掛かりがあり城絵図とも一致する。曲輪と内堀の境界も一部わかる。黄色のラインは曲輪の輪郭を示したもの。
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写真10 〇で囲んだ部分の中心から上は本丸があった場所。本丸は左の一部を残し殆ど失われているが、輪郭の痕跡が薄らと浮かび上がっていることがわかる。中央の色の濃い部分は内堀の痕跡で、本丸と曲輪を結ぶ通路の痕跡が確認でき、本丸側は横矢掛かりになっていたこともわかる。
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写真11 本丸を取り囲む曲輪の東側部分は失われているが、その痕跡がハッキリと浮かび上がっている。ギザギザの部分(赤い矢印)は横矢掛かりの痕跡と考えられ、城の絵図とも符合する。
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写真12 外堀と湿地帯を仕切るかつての堤。湿地帯側の各所に横矢掛かりが配置されており、堤そのものが堀に水を溜める目的のために人工的に造られたことが窺える。
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写真13 堤の湿地帯側には水が流れた痕跡(白く筋になった部分)が等間隔に三箇所見られ、この辺りで堀の水を排出していたことがわかる。その排水は農業用水として耕作にも利用されていたと思われる。
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写真14 城郭の南側付近。
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図5 幕末に描かれた城絵図 追手口から右にずれた位置に馬出し口があり、写真14と符合する。
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写真15 約1200分の1で作製したジオラマ。1mは0.8oになる。
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写真16 蔵屋敷曲輪と嶋曲輪の間から城の中心部を眺めたところ。
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写真17 東側の堤から防塁と天神曲輪の間を眺めたところ。
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写真18 黄色い線は、ジオラマから得られた検証結果に基づき曲輪等の範囲や形状に変更を加えたもの。赤い点は、城絵図や写真に写る痕跡などを頼りに外堀の範囲を推定したもの。
紫の点は、当時の道路の一部を推定したもの。水色の点は、水路の痕跡。
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写真19 櫓台の遺構と考えられる位置から馬場、蔵屋敷跡、代官屋敷跡への距離感。黄色の線は、一町あたり15mm短い位置に印をつけたもの。
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写真20 三叉路の交差点付近から馬場、蔵屋敷跡、代官屋敷跡への距離感。
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写真21 今も私有地に残る嶋の痕跡と天神社。Googleマップより。
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写真22 天神曲輪から見た本丸と二ノ丸方面。防塁に遮られ天神社の先まで行かなければ城内の様子は見えない。
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図6 検証結果に基づく推定復元図
先人の方々による記録の甲斐あって、現時点においては廃城以来最も実物に近い絵図が再現できた。 この絵図から蔵屋敷曲輪や二つの嶋曲輪、曲輪2左側の障壁は、相互に目隠しの役割を果たしており、東側の細長い蛇行した防塁も目隠しや障壁の役割を果たしていたことがわかる。 |