難波田城の全貌に迫る


戦後アメリカ軍が撮影した航空写真から
難波田城の在りし日の姿をひもとく


著作:岡野 敦
Web公開版

(令和7年4月12日改訂)


はじめに
地域の名城“難波田城”は、鎌倉時代から戦国時代末まで埼玉県富士見市下南畑の地に存在した平城である。
当初は武蔵七党村山党の一流難波田氏の居城だったが、難波田氏の衰退後、北条家の家臣上田周防守の居城となり、北条氏の支城として大規模に改修されたが、その後、北条氏の滅亡とともに1590年に廃城となった。
本書は、昭和22年11月8日にアメリカ軍が撮影した二点の航空写真から、当時残存していた城郭の遺構や痕跡、破壊後も地中に残った基礎部の影響で地表に現れたソイルマーク(土壌痕)やクロップマーク(作物痕)、城郭の痕跡を色濃く残す今日の土地の区画などを精査し、さらにジオラマを用いて立体的に検証を試みて、城郭の在りし日の姿に迫った研究結果をまとめたものである。
因みに、ソイルマークとは、遺跡の上を覆った土壌は多くの場合水分を含む度合いが周囲の土壌と異なることから、上空から撮影すると土壌の色合いが異なって見える現象で、クロップマークとは、遺跡のある部分の土壌は周囲と異なる場合があり、耕作物の根が伸びる十分な深さと湿度や肥沃さが足りないために作物の成長が周辺より劣り、これを上空から見るとき、遺跡の上の作物の色合いがはっきり違って見える現象である。
当時の難波田城周辺は、水田や畑が殆どで森や民家が少なく平坦なため、ソイルマークやクロップマークが確認できた。解像度の関係で、どちらなのか区別できない点もあるが問題は無いものと考えている。
なお、フィルムの傷、影の錯覚や見間違いなど曖昧な要素は極力排除するように心がけた。

目次
はじめに
搦手について
堡塁の痕跡について
櫓台跡について
蔵屋敷について
本丸と曲輪について
堤について
水路について
外堀の南端と追手への道について
ジオラマによる検証
 (1) 曲輪の役割
 (2) 外堀の範囲
 (3) 櫓台跡の検証
 (4) 天神社
最 後 に

付録
 難波田城について
 地名の由来を考える



写真1 最近の難波田城とその周辺 Googleマップより。

写真2 昭和22年に撮影された航空写真の一つ。二ノ丸や本丸を取り囲む曲輪や堀の様子がわかる。

図1 複数存在する江戸時代前期に描かれた難波田城図の一つ(難波田城資料館)。

図2 幕末に描かれた難波田城図 追手門の外に馬出しが描かれている(難波田城資料館)。

図3 難波田城資料館平成18年春企画展の刊行物「難波田城のすべて」に掲載された推定範囲図。

図4 難波田城資料館開館20周年記念 令和3年春季企画展刊行物「難波田氏とその時代」に掲載された難波田城跡縄張り推定復元図。

搦手について
写真3 搦手の写真 保存状態が極めて良く防御の仕組みもわかる。搦手門(虎口)を入ると枡形1があり、右に向かうと第二の門がある。左に向かうと枡形2があるが行き止まりに見える。

搦手の保存状態は極めて良好で仕組みがよくわかる。以前に発掘調査が行われた可能性があり、搦手門(虎口)内外の様子がつぶさに確認できた。
搦手の堀は、鉤の手に曲がり横矢掛かりになっていて、虎口は内枡形虎口で内外を結ぶ通路は地面より低く掘られており、一気に大勢の敵が攻め込めないようになっていた。
それと同様に城内の枡形も低く掘り込まれていて、敵が侵入した際にはここで多方向の高い位置から攻撃する仕掛けになっていた。
また、虎口から城内に入る通路は、意図的に左に向けられており、その先にある枡形2は行き止まりになっているように見受けられることから罠の可能性も考えられる。
虎口から城内に入り、右に行くと第二の門があり、ここを抜けて左に行くと二ノ丸の奥や蔵屋敷に通じていたようだ。
なお、搦手虎口付近には、民家の屋根が写っていて個人所有地となっているようだが、遺構として重要な部分は残されており、ここで述べた内容に影響はないものと考える。

堡塁の痕跡について
写真4 搦手門(虎口)の外には馬出しがあり、その直ぐ近くに堡塁の痕跡が二箇所確認できる。

堡塁と考えられる二つの痕跡は、写真左側のものは縄張り北西端に位置する三叉路の交差点にあり、近くに存在した櫓の守備や川越方面からの敵に備えたものと考えられる。
また、写真右側のものは馬出しが道路と接する位置にあるため、一般的な馬出しに付随する堀や土塁の役割に相当するものと考えられる。
これら堡塁の跡は、その場所が城の防衛上重要な位置にあり道路沿いに土塁と見られるものが写っていることや当時の面影を残す区画になっていることから堡塁の痕跡と判断したが、既に当時から民家の敷地と化している。

櫓台跡について
写真5 三叉路と櫓台跡の遺構。

写真6 三叉路堡塁の痕跡と櫓台跡の拡大写真(ボヤケは解像度によるもの)。

江戸時代に編纂された新編武蔵風土記稿(1830年完成)には、「…(城の)西の方には櫓台の跡あり、それより一町(110m)余り隔て馬場や蔵屋舗(蔵屋敷)などの跡が残れり。東の方へ三町(330m)ほどに代官屋舗(本丸)の跡あり…」の記述があり、また、江戸名所図会(1834年〜1836年刊行)にも、「櫓台跡の一辺は27m、高さ3.3mの築山だった」とも書かれている。
これらの記述にある「櫓台跡」の場所は、私の考えでは位置から推して縄張り西北端の三叉路付近と考えていたが、それ以上のことはわからず公的な調査もなされていないようである。
今回、三叉路保塁の検証をおこなっていたところ三叉路堡塁の痕跡から少し後方に下がった位置に、木が生い茂った四角く小高い場所が確認できた。現在では建物や畑になっていて跡形もないが、位置や大きさ、形状から「櫓台跡」と断定してまず間違いないだろう。
それでは、往時の「櫓」はどのようなものだったのだろうか。
櫓台は、その一辺は27mと記されていることから四角形だったことがわかる。仮に正方形とすると約220坪もの面積になり、イメージ的には一般的な戸建て住宅の敷地面積を約30坪とすると7戸も建つほどの広さで、高さは約3.3mで人の身長の2倍程もあり、長期にわたりその姿を留めるほどしっかりと造られていた。
大きさに多少の誇張があったとしても、長いこと地元民の記憶にとどめ江戸時代の文書にも記述が残されていること、こうした大掛かりな櫓台が必要だったことを考えると、そこに建っていた櫓は簡易な物見櫓ではなく、それに見合った本格的な構造とそれ相応の高さがあって、遠くを見渡せて遠くからも見えるランドマーク的な存在だったと考えられる。
話は少し逸れるが、櫓台の跡が見つかったことで、その配置から戦術的な意図がわかり、三叉路に堡塁があったことも裏付けられる。
もし、堡塁が存在しなかったと仮定すると、櫓台の位置がなぜそこなのか説明がつかなくなる。櫓の機能だけを考えれば、よく目立ち遠くを見渡せて通行の監視にも便利な三叉路の目の前に配置すべきだからである。しかし、櫓が前面ではあまりにも無防備で、敵から攻撃を受けて奪われてしまう危険がある。
こうしたことから、櫓を守るためにはやはり堡塁が必要で、それを前方(三叉路)に配置して櫓を後方(写真の位置)に置くのが最も安全で、必然的にこのような配置となり、堡塁の存在も裏付けられるのである。

蔵屋敷について
写真7 蔵屋敷があった場所と考えられる扇形の土地。通路の痕跡があり難波田城図とも符合する。堀のあった場所が縞模様になっていることから障子堀だった可能性がある。

写真8 現在も残る扇形の土地(Google Earthより)。

蔵屋敷のあった場所は、富士見市(難波田城資料館)の見解では搦手虎口を入ったところと考えているようだが、虎口の内側は厳重な防御の仕組みがあり蔵屋敷を建てるスペースは無く城絵図とも違っている事はご理解いただけることと思う。
そうなると、その場所は必然的に特徴的な扇形をした土地が有力候補地となる(以下蔵屋敷曲輪と仮称する。)。その裏付けとして二ノ丸とその土地を繋ぐ通路の痕跡も写真で確認できて城絵図とも符合する。他に該当する場所が見当たらない事から、ここが蔵屋敷のあった場所と断定できる。
また、その周囲の堀のあった場所に縞模様が浮き出ていることから、小田原北条氏の城でよく用いられた障子堀の可能性があり、もしそうであれば重要な施設が存在したことの証となる。

もう一つの役割
では、蔵屋敷曲輪は、なぜ扇形なのだろうか?
写真の黄色の線を見ていただくと二ノ丸の搦手付近と蔵屋敷曲輪の長辺がほぼ平行しており、もし搦手に敵が攻め寄せても堀を挟んで蔵屋敷曲輪側からも反撃可能で、二ノ丸と合わせて多方向から挟み撃ちできたことがわかる。
また、敵が西側の堀を越えて蔵屋敷曲輪を攻めようとしても、扇形は死角が無く短辺だけでなく長辺からも警戒できることや、敵からは奥行を感じさせる弓なりの長辺と短辺が一緒に見えることで実際より大きく錯覚させて、さらに背景にある複数の曲輪が重なって奥が見えないことで、怖心を抱かせて戦意を喪失させる狙いがあったものと考えられる。つまり、偶然や美意識からではなく、実戦に備えた無駄の無いレイアウトであって、盤石の備えだったことがわかる。

本丸と曲輪について
写真9 城の北側は、二ノ丸と曲輪が並行していて外堀と中堀の様子もわかる。各所に横矢掛かりがあり城絵図とも一致する。曲輪と内堀の境界も一部わかる。黄色のラインは曲輪の輪郭を示したもの。

写真9の「内堀と曲輪の境界を示す痕跡」として現れている各四角形の上に、左に向けて延長線(黄色の線)を引くと曲輪の北側の形がわかり、また、曲輪の右端から斜め下の先端の尖った部分に向けて線(黄色の線)を引くと曲輪の東側がイメージできる。


写真10 〇で囲んだ部分の中心から上は本丸があった場所。本丸は左の一部を残し殆ど失われているが、輪郭の痕跡が薄らと浮かび上がっていることがわかる。中央の色の濃い部分は内堀の痕跡で、本丸と曲輪を結ぶ通路の痕跡が確認でき、本丸側は横矢掛かりになっていたこともわかる。

本丸(写真10)は、左上部の木が茂った場所以外は失われているが、輪郭が薄らと丸く浮き出て見える。これは、地中に基礎部分が残っているためと考えられる。中央の色の濃い部分は、本丸の南端と内堀の痕跡で、本丸と曲輪を結ぶ通路の痕跡があり本丸の横矢掛かりも見える。これらのことから、本丸は栗の実のような形状だったことがわかる。


写真11 本丸を取り囲む曲輪の東側部分は失われているが、その痕跡がハッキリと浮かび上がっている。ギザギザの部分(赤い矢印)は横矢掛かりの痕跡と考えられ、城の絵図とも符合する。

本丸と二ノ丸の間にある同心円状の曲輪の東側は失われているが、曲輪のあったた位置に見えるギザギザ(写真11参照)は、「農地の区画によるもの」との否定的な意見もあるが、削平されて農地と化しても曲輪の基礎部分は地中に残っている可能性が高く、区画整理は堀の水を抜いて地面を乾燥させた後に行われたであろうことから、曲輪の形状に合わせて区画分けしたものと考えられ、区画自体も城跡の痕跡を留めたものと考えられる。こうしたことから、やはりこれらは曲輪の横矢掛かりの痕跡と考えるのが妥当だろう。

堤について
写真12 外堀と湿地帯を仕切るかつての堤。湿地帯側の各所に横矢掛かりが配置されており、堤そのものが堀に水を溜める目的のために人工的に造られたことが窺える。

この写真が撮影された時点で、外堀と湿地帯を仕切るかつての堤は削平されて農地と化しているが、地中に残った基礎部分によって築城当時の姿が浮き出ている(写真12参照)。この幾何学模様は自然によるものではなく人工的なものであることは容易に想像がつく。
このように造成したのは、湿地帯からの攻撃を防ぐことや堤が破壊されて堀の水が抜かれないように守る目的で、多方向から反撃できる横矢掛かりにしたものと考えられる。
そもそもが、この堤は自然に形成されたものではなく築城の時に堀に水を溜める目的で人工的に造ったものと思われ、写真に横矢掛かりなど当時の姿がそのまま浮き出て見えているのは、丁寧な基礎工事が成されたためであり人工的に造った証でもある。
今となっては、ここに土塁があったかどうか定かではないが、民家の建っている場所はうず高くなっていることから、元々は堡塁のような施設があったことも考えられる。

水路について
写真13 堤の湿地帯側には水が流れた痕跡(白く筋になった部分)が等間隔に三箇所見られ、この辺りで堀の水を排出していたことがわかる。その排水は農業用水として耕作にも利用されていたと思われる。

堀は、一定の水位を保つことや澱みを防ぐために排水機能は必須である。堤の湿地帯側(右側)には等間隔に三箇所の水が流れた痕跡(白い筋)が見られることから夫々の位置に排水路があったことがわかり、堀としても機能していたと思われる。また、それが同じ方向に長く伸びていることから用水路として耕作に使用されていたことが窺える(写真13参照)。
堤の湿地帯側にある水田は、写真が撮られた時点(1947年)で土地改良で整然と区画整理が成されていて、それ以前の風景とは違っていると思われるが、用水路の痕跡だけが区画を無視して斜めに横切っている。
これは、廃城後も堀が溜池として機能し続け、恐らく数百年間同じ位置に用水路が存在し長い年月を経て蓄積された堆積物やミネラル分によって、そこだけ土壌の成分や硬さが他と異なり耕作物の生育度合に差が出て、このように見えているものと考えられる。海外の話だが穀倉地帯を撮影した航空写真に、地中に埋没した古代の道路が区画を無視して麦畑に一直線に浮かび上がって写った、クロップマーク(作物痕)の典型的な事例があり、これと似た現象である。

外堀の南端と追手への道について
写真14 城郭の南側付近。

図5 幕末に描かれた城絵図 追手口から右にずれた位置に馬出し口があり、写真14と符合する。

城の南側について写真を精査したところ、わかりにくかったが外堀の南端が判明し、さらに、その付近から東方向(写真右方向)の湿地帯に向かって真っ直ぐ水路があり、実質上そこが縄張りの南端であることがわかった(写真14参照)。
また、追手の馬出し口から縄張りの外に向かって真っ直ぐな道があり、堀の南端付近でS字状に曲り南西方向へと続いていたこともわかった。
興味深いのは、城下であるにも関わらず道は枡形(鉤の手に曲がった道)ではなく馬出し口から堀の南端まで真っ直ぐ直線的に伸びていて、その間に道を東西に横切る複数の空堀があったことである。
この辺りは、宿という字名が残っていることから小規模ながらも城下町を形成していたと考えられる場所で、そのことから馬出し口から縄張り南端の水路にかけて武家屋敷があり、その外側から外堀の南西側あたりに宿場町があって、町人の家や宿屋などがあったものと考えられる。

ジオラマによる検証
写真15 約1200分の1で作製したジオラマ。1mは0.8oになる。

 立体的なジオラマを用いて検証をおこなったところ、写真や平面的な推定復元図からだけではわからなかった数々の重要なことが判明した。例えばその役割がわからなかった「嶋曲輪1」と「嶋曲輪2」だが、立体的に調べたところその主な目的は目隠で、城郭東側の奥から続く細長い防塁についても同じように目隠しが主な目的だったことがわかった。


写真16 蔵屋敷曲輪と嶋曲輪の間から城の中心部を眺めたところ。

ジオラマからわかるように、見る角度によっては蔵屋敷曲輪と嶋曲輪の間から奥にある本丸まで見えてしまう(写真16参照)。

写真17 東側の堤から防塁と天神曲輪の間を眺めたところ。

また、東側の細長い防塁も写真17のように隙間から天神曲輪の奥まで見えてしまう。
その理由は、ジオラマの制作において曲輪の形状や配置が実在したものと違っていたからと思われる。
さらに、北側の外堀が狭すぎることもわかったので、この結果を昭和22年の航空写真と対比して検証した。


写真18 黄色い線は、ジオラマから得られた検証結果に基づき曲輪等の範囲や形状に変更を加えたもの。赤い点は、城絵図や写真に写る痕跡などを頼りに外堀の範囲を推定したもの。 紫の点は、当時の道路の一部を推定したもの。水色の点は、水路の痕跡。

(1) 曲輪の役割
蔵屋敷曲輪とその隣に並ぶ二つの嶋曲輪及び曲輪2の左側にある細長い障壁は、相互に目隠しの役割をはたしていたことが判明した。写真に印した黄色い線のように推定範囲を修正すると西側の様々な角度から城郭の中心を眺めて見ても、これらが障害となって奥まで見渡すことができない(写真18参照)。
また、城郭の東側にある奥から続く細長い防塁は、幕末に描かれた絵図(図2参照)にしか描かれていないため、その実在を疑ったが今回の検証でこれも主な目的は目隠しで、黄色のラインのように蛇行させることで城の中が見渡せないことがわかった。このように奥から続く細長い形の防塁にしたのは、天神曲輪からも城内を見えないようにしていた(後出「天神社について」で解説。)ことや、南東部分は外堀の幅が狭いので防衛のためにも必要だったこと、そして堀の水の循環を考慮してのことと考えられる(全体のレイアウトは図6推定復元図を参照)。

(2) 外堀の範囲
ジオラマで検証してみると外堀の範囲にも疑問が浮かんでくる。当初は、概ね今日の道路は外堀の岸に沿っているものと考えていたが、立体的に検証してみると北側の堀の幅が狭すぎることに気付いた。
改めて江戸前期に描かれた絵図(図1参照)を見ると、外堀にはある程度幅があって岸は直線的に描かれていることがわかる。
そこで、絵図を参考に、それらしい痕跡や手がかりを探して推定範囲に赤い点で印をつけた。これらを線で結ぶと、往時の外堀に近い輪郭が浮かんでくる。さらに東側や西側についても同様に検証してみた。こちらも外堀の幅はあるものの、やはり今日の道路とはかなり違いがあって、ここに示した推定範囲の方が、かつての輪郭に近いと思われる(写真18参照)。
因みに、幕末に描かれた絵図(図2参照)では、北側の堀は風化によってその幅がかなり狭くなっているが、おそらくこの線に沿って今日の道路がつくられたため、写真18のように堀(痕跡)の幅が狭くなってしまったのだろう。

(3) 櫓台跡の検証
ジオラマを使って櫓台跡の位置を検証してみた。

写真19 櫓台の遺構と考えられる位置から馬場、蔵屋敷跡、代官屋敷跡への距離感。黄色の線は、一町あたり15mm短い位置に印をつけたもの。

写真20 三叉路の交差点付近から馬場、蔵屋敷跡、代官屋敷跡への距離感。

新編武蔵風土記稿によると「櫓台は城の西にあって、そこから一町余り隔てて馬場や蔵屋敷の跡があり、東の方三町ほどに代官屋敷の跡がある」とある。距離は「一町余り」や「三町ほど」と書かれていることから正確に測ったものではなく大雑把なものであることがわかる。また、ジオラマも1200分の1で制作しているがこちらにも誤差はある。距離の比較に用いた白いスケールの短い方は88mm(約一町相当)、長い方は264mm(約三町相当)である。
写真は櫓台の遺構と考えられる位置を基準点にスケールを置いた。その結果、馬場や蔵屋敷跡までの距離感は記述と一致するが、代官屋敷跡までの距離感は少し近い結果となった。
写真Bは三叉路の交差点付近を基準点にスケールを置いた。その結果、許容範囲ではあるものの馬場や蔵屋敷跡までの距離はやや遠く、代官屋敷跡までの距離はやや近い結果となった。
写真をご覧いただくとわかるように、その他の場所を基準点にすると馬場、蔵屋敷跡、代官屋敷跡のいずれかに距離的なずれが生じてしまうことから、この写真19、20の基準点以外の場所は考えにくい。
少し強引かもしれないが、ジオラマの誤差と記述の誤差を考慮して一町相当のスケールを15mm短く(黄色の線)、三町相当のスケールを45mm短く(黄色の線)して比較してみると記述にほぼ一致した。
以上の検証結果と航空写真に写っている痕跡から総合的に考えて、櫓台跡の場所は写真19の位置で間違いないだろう。

(4) 天神社
写真21 今も私有地に残る嶋の痕跡と天神社。Googleマップより。

写真22 天神曲輪から見た本丸と二ノ丸方面。防塁に遮られ天神社の先まで行かなければ城内の様子は見えない。

まず天神社は誰のためにあったのかを考えてみる。城内にあるので城主や家臣のために祭られていいたのだろうか? 或いは領民もお参りできたのだろうか?
天神社が城内にある例は他にもあり、例えば童謡“通りゃんせ”の舞台とされる川越市にある三芳野神社は川越城内にあり、庶民もお参りできたようだ。
それでは難波田城の天神社はどうだったのだろうか? 今となっては確かなことはわからないが、やはりこの天神社も領民が自由にお参りできたのではないだろうか。それを裏付ける状況証拠がいくつかある。
その第一は、今日まで地域の人々に引き継がれ大切に祭られているという点である。もし、城の中だけで祭られ領民と隔絶されていれば、廃城と共にこれも廃されていた可能性が高い。
第二は、天神曲輪や二ノ丸へのアプローチである。
当時とは多少異なると思うが、今日の天神社はかつて堤と外堀のあった場所から境内に入り鳥居をくぐってお参りするようになっている。
推定復元図で見ると、当時も天神曲輪と堤の間の外堀は幅が狭く、ここに取外し可能な橋を架けて、さらに天神社から先は立入れないように柵と門で仕切れば、城の安全を確保しながらも、領民らは橋を渡って比較的自由にお参りすることができたはずである。
万が一、危機が迫りつつあるときには、速やかに橋を外して外部と遮断すれば城は守れるが、それでも敵に侵入されてしまった場合は、天神曲輪と二ノ丸の間にある通路は一部幅が狭くなっていて一度に大勢が通り抜けられないことから、ここで敵を防ぐこともできただろう。
もし、領民も搦手虎口を通ってお参りできれば橋を設ける必要はなく、城を危険に晒す心配も無いのだが、城内を見られてしまうのでそれは考えにくい。
第三は、防塁と嶋の存在である。
前出の細長い防塁だが、写真22をご覧いただくと分かるように天神曲輪と並行して奥まで続いているため、これが目隠しとなって、天神曲輪からは城内の様子を見ることはできない。また、その先にある嶋も同様に目隠しになるほか小高くなっていることから、ここには見張りのための櫓が建っていて、上からも監視するようになっていたことが考えられる。
もし、ここで述べた状況証拠が正しければ、細長い防塁の存在理由やその先にある嶋および横矢掛かり付近の狭い通路についても合理的に説明が付き、天神社までは領民が立入れたことの裏付けとなる。

図6 検証結果に基づく推定復元図
先人の方々による記録の甲斐あって、現時点においては廃城以来最も実物に近い絵図が再現できた。
この絵図から蔵屋敷曲輪や二つの嶋曲輪、曲輪2左側の障壁は、相互に目隠しの役割を果たしており、東側の細長い蛇行した防塁も目隠しや障壁の役割を果たしていたことがわかる。

最 後 に
この研究で用いた航空写真は、国土地理院のアーカイブで発見したものである。国土地理院のアーカイブに保存されている航空写真の中で、難波田城が鮮明に写ったものは、昭和22年11月8日に撮影された「N3-USA-R524-No1-60」と「N3-USA-R524-No1-61」の2点が最古と思われる。
今回入手した写真は、解像度400dpiだが、有料(3,464円)で、高解像度1200dpiのものも購入可能である。
いずれにしても、この二点の航空写真は難波田城を後世に伝える貴重な資料であり、難波田城図にも匹敵する重要な文化遺産である。
ここに記した内容は、二枚の航空写真と複数の城絵図、現在の様子を対比しながら精査して得られた結果に基づいているが、写真が撮影された時点でもかなり城郭の毀損が進んでいて原形を留めていない部分が多かった。幸いにも各所に様々な痕跡が写っていたことに加え、裏付けとなる城絵図が残されていたことが役立った。
更に、写真や絵図からだけではわからなかった築城時の曲輪の形状や機能、堤の形や機能、外堀の範囲、蔵屋敷や櫓台跡の位置についてジオラマでビジュアル的に検証を試みた。
これらの成果により、難波田城はこれまで考えられていたより小規模ながらも戦国時代の城として優れた防御の仕組みが各所に見られるほか、堀の水は農業用水にも活用され地域の人々の暮らしも支えた堅固で機能的な美しい城郭だったことが判明した。そして、江戸時代に描かれた城絵図は、細部を省略しながらも重要なポイントを押さえてかなり正確に描かれたこともわかった。
写真を精査していると、この城郭を宅地化・農地化するにあたり事前に広範囲な発掘調査が行われたのではないか? と思える点が多々あった。
例えば、幕末に描かれた城絵図では全体的に風化が進んで堀や曲輪の輪郭が崩れているが、二ノ丸付近は写真の方が輪郭がハッキしており、搦手や本丸の一部分は、地中に埋もれているか破壊されいても不思議ではないが、元の様子がわかる状態で露出している点などが挙げられる。
戦中戦後の混乱もあって資料は散逸してしまったかもしれないが、埼玉県か富士見市の資料庫に発掘に関する記録が残っていないだろうか。


付  録
難波田城について
最初の城主である難波田氏は、武蔵七党の村山党に属する金子高範が承久の乱(1221年)で討ち死にしたことから恩賞として後継者に難波田の地が与えられ、鎌倉時代にその子孫が難波田の地に館を構え、地名を苗字として名乗ったことが始まりとされている。
難波田城は、その難波田氏が中世に築いた平城で、戦国時代には扇谷上杉氏に属していたが、天文14年(1545年)その時の城主難波田弾正(難波田善銀)は、河越の地で北条氏康の奇襲(河越夜戦)で討ち死にしたため難波田氏は衰退し、その後は小田原北条氏の家臣上田周防守の居城となった。天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原北条氏が滅亡したのと同じ時期に廃城になった。この地で実際に戦闘があったかどうかは現在のところ不明とされている。
所在地は、埼玉県富士見市下南畑の地にあり、昭和3年に埼玉県史蹟に指定され、昭和36年に埼玉県旧跡に指定変更された。
現在は、城郭の面影はあまり感じられないが、その一部が発掘調査の後、難波田城公園として復元整備され資料館も併設されている。
戦国時代の平城が現存している例は少なく、城郭の一部とはいえ復元された例は珍しいそうだ。
城郭の三方を囲む道は、拡張され直線的に舗装整備されているものの、ほぼ同じ位置に存在しており、歩いても10分〜15分程度なので、往時に思いをはせながら一周するのもお勧めだ。
江戸時代の難波田城図にも記されている天神社の他、少し離れているが八幡宮も現存しているので時間があったら足を伸ばしてみるのもよい。

地名の由来を考える
今日では漢字で「南畑」と書くが、江戸時代より前は難波田と書いていた。
難波田が南畑になった経緯は色々なところで紹介されているのでここでは省略する。
現在のところ難波田という地名の由来は明らかになっていない。
難波という文字はどうしても大阪をイメージしてしまい埼玉県ではあまり聞きなれない響きで違和感を感じる。
そこで、私の独断と偏見による推理で難波田という地名の由来を考えてみた。
まず、難波田の難波と田を分けて、その間に「の(連体助詞)」を入れて「難波の田」とすると、「難波さんの所有する田」あるいは、「難波さんが開墾した田」と解釈できる。日常的な会話の中で「の」は発音しにくく省略できるうえ敬称はつけなくても差支えないので、「難波田」となっても不思議ではない。
それでは、難波さんは何者か?
難波田という地名は、鎌倉時代まで遡れることはわかっているので、おそらくそれ以前から続いていた地名であることは想像に難くない。
もし、難波さんが平安時代頃にいた大地主だった場合それが何を意味するかというと、難波さんは貴族か武士でそこが難波さんの荘園か領地だったのではないかという推理が働く。
本当に難波さんは実在したのか?
今は便利な時代である。
ネットで難波氏と検索するとやはりヒット!
Wikipediaでは、難波家(なんばけ)は、藤原北家花山院流の公家、華族だった家とあった。
そこで、「難波武蔵守」なる人物はいたのか検索してみた。
残念ながらヒットなし。
貴族の難波家が武蔵国に荘園を所有していたかどうか私にはわからない。
それとは別の系統で平安時代末期から戦国時代末期まで、備前国に「難波」を名乗る武士がいた。
その中に平清盛に従っていた郎等もいたようで、本拠とする地域は違うが手柄をたてて武蔵国の地に領地を与えられた可能性もあり得ない話ではない。
自分なりに発想は悪くないと思うのだが、仮説とまでも言えずあくまで想像であって、たいした根拠は無いのであしからず。


【参考文献】
難波田城のすべて 平成18年発行
富士見市立難波田城資料館

難波田氏とその時代 令和3年発行
富士見市立難波田城資料館

藤原武著 ローマの道の物語 原書房


お問い合わせ先
著者: 岡野 敦
nambata_castle@hobby-mart.com

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